先日、知り合いから、自転車を安く譲ってもらえる話があった。
ちょうど、今乗っている自転車もパンクを繰り返し、そろそろ買い替え時だと感じていた折だったので、快く譲ってもらうことにした。
その自転車が届いてみると、これがまたなかなかいい。
シルバーのボディが輝くようだった。
早速サドルを目一杯に上げる。
何かを少し変えることで、自分だけのもの、という感覚を確かにするためである。
そして、普段は書かないのだが、自転車のネームラベルに名前を入れた。
それから一週間経った土曜日、電車で遊びに行った帰りに急な腹痛に襲われた私は、駅から家までの距離が我慢できずに、駅前のコンビニでトイレを借りることにした。
購入したばかりの自転車をコンビニの前に乗り付けて、買い物のついでですよ、と言わんばかりの雰囲気を装いながら、ゆったりとコンビニの中へ。
商品を物色するような視線を投げかけつつ、足はまっすぐトイレに向かう。
無事に用を済ませてトイレを出たが、さすがに何も買わずに出るのもなんなので、適当に選んだお菓子とジュースを持ってレジへ。
店員がレジを打つわずかな時間に、ふと自転車の方を見てみると、見知らぬ青年が私の自転車を移動させようとしている。
入り口のところに置いてあったので、ああ、邪魔だったかな、と余裕十分に見つめる私は、そこで声にならない悲鳴を上げた。
なんと私の自転車は、持ち主である私の目の前で、堂々と乗り逃げされようとしている。
レジでは、店員が私に商品のつり銭を渡せずに、手のやり場に困っていたようだが、もはや私の思考は六百三十円の釣りどころではない。
今、目の前で私の輝くシルバーの自転車が、盗まれようとしている。
しかし、その犯人のあまりに自信溢れる盗人ぶりに、私の思考はさらに空回りを繰り返す。
不意に店員が、「あのぉ〜」と声をかけてきたが、もはやその程度の言葉では、私の気持ちを奪い返せないと直感した店員は、私の視線の先にある、商品とつり銭以上の存在に目を向けた。
しかし、そこには平和な光景が広がるばかりだったろう。
彼にとっては、誰かが自分の自転車に乗っていく、という程度にしか見えなかったに違いない。
私の思考はようやく回りだし、コンビニを飛び出すことができた。
しかし、時既に遅し。
もうそこには、私の自転車で遠くを走りゆく犯人の後ろ姿以外は何もない。
「泥棒!」と反射的に叫んでいた。
犯人は、ぎょっとしたように後ろを振り返り、気のせいか自転車のスピードも遅くなり、とまどいを見せたような気がした。
しかし、そのまま犯人はあっさりと遠ざかり、見えなくなってしまった。
それにしても、あれだけ堂々と盗んだわりには、あの驚き方には不自然なものを感じた。
でもそんなことはもうどうでもいい。
私は、あまりの犯人の手際のよさと、泥棒と叫んだ自分が可笑しくなって、思わず笑顔がこぼれてしまった。
もう笑うしかない状況でもあった。
その私の後ろから、不審そうに店員が商品とつり銭を持ってやってきた。
「自転車・・盗られたんですか?」
私は心の動揺を隠す必要もなく、自然な笑顔で「ええ、盗られちゃいました。」と答えた。
それからまた一週間が過ぎた。
私の傷ついた心も時間と共にようやく癒え、また電車で遊びに行った帰りに、懲りもせずに悪夢のコンビニへ立ち寄った。
あの時とは違って、今日は自転車にも乗っていないし、トイレに行く必要もない。
ただ、心のどこかで自分の自転車が見つかることを期待していたのかもしれない。
コンビニの前に行ってみると、私は立ち尽くしてしまった。
私の自転車がそこにあるのだ。
間違いなく私の自転車だ。
サドルはやや下がっているように見えたが、なぜか間違いないと確信した。
犯人が返しに来たのか、もしくはコンビニの中に・・・。
これからどうなるのか不安な気持ちを抑えつつ、私はゆっくりとコンビニに入って辺りを見渡す。
しかし、意外にも私の他に客はいない。
店員の自転車が店の前に堂々と置かれているのも不自然だし、きっと犯人が返しに来たに違いない。
私はそう確信して、何も買わずにコンビニを出た。
一週間ぶりに見る私の自転車は、まだ輝いていた。
他人にはわからない程度に、ハンドルを少し撫でるようにして、ゆっくりと自転車に跨った。
そしてその感触を確かめるように自転車のペダルを踏んだ。
間違いない、私のだ。
ややスピードが乗ってきた時、不意に後ろから「泥棒!」という声に襲われた。
私はぎょっとして振り返ってみる。
どうもその叫んだ声の主は、コンビニから慌てて飛び出してきたようで、コンビニのドアがゆっくり閉まっていくのが目の端に映る。
さっき確認した時には客はいなかったのに、なぜ?
奴が犯人なのか?
それなら戻るべき?
思考はぐるぐると回転したが、結局惰性でそのまま走り続けて家に帰った。
先週の犯人も、私がトイレにいることに気付かずに自転車を盗んだんだろうか。
・・・トイレ。
もしかすると、さっきの人はトイレに入っていたのか。
思考が乱れる。
何がなにやらよくわからなくなってきた。
頭を抱えるようにして視線を下に落とすと、自転車に書かれた文字が見えた。
「東山 大輔」
知らない名前だ・・・
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